奥村芳松は通称義松といい文久3年(1863年)生まれで、広島県三原市出身の士族である。明治維新の時は5才であった。
明治20年大阪市東区道修町の巽屋商店につとめ医療器械の販売を行い、明治26年に東区淡路町1丁目で独立し、医療器械の販売のかたわら義肢・装具の製作を試みたらしい。明治32年に義肢・装具の製作に自信をえたので、西区京町堀通1丁目に移り、店舗と製作所をかまえた。その頃米国人医師テーラー、大阪府立医専〈阪大医学部の前身)井上平造、三宅速教授に種々指導してもらい、良い製品ができるようになったので、義肢・装具製作に専念するのである。ここに出てくる三宅速教授はアインシュタインと親交のあった人である。
従って奥村芳松がわが国最初の義肢工房を作ったのは明治32年(1899年)ということになる。明治36年には店舗、製作所拡充のため同町2丁目に移り、 この年済世舘と称した。 明治40年、三宅速先生が福岡医科大学〈九大・医学部)教授に変り、懇望されて福岡に出張所を開設し、そこでも製作にあたった。これが九州では始めての義肢製作所であったという。 その後芳松は大阪の方を義弟にまかせ、自身は九州で活躍し、門下の養垂ノあたった。そして大正6年(1917年)その生涯を絶えている。54才であった。芳松の門下として育成され、製作所を開いた人は9人であるがその一人が土井昇造氏である。奥村芳松の妻シズは川村一郎の祖父、土井徳松の姉であり土井昇進は弟である。従って当社のルーツは奥村済世舘であるということになる。
(自主創業)
(医療機器業界から独立)
(人形師系列から独立)
(病院、公的機関等から独立)
(その他)
1902年 鈴木祐一 「義手足纂論」
戦前日本を代表する義肢装具製作施設として定評のあった土井義肢矯正器専門技術所は、明治28年に故奥村芳松氏と共に義肢装具の製作開発に着手した故土井昇造氏が明治43年2月に大阪市西区において独立開設したものである。
昭和3年には現東大阪市に研究所並びに工場を新設し、西区の本社と共に50年前としては驚くべき施設と人材を確保していた。土井義肢の特徴の第一は研究熱心なことにある。ここに展示してある土井式正坐式義足をはじめ、数多くのユニークなアイデアを実用化したが、その保有特許・実用新案は20件にも及んだ。
また第2の特徴は、金属加工に関し絶大な技術を有したことであり、筋金はすべて素材の鋼から手造りで鍛造され、その強度と耐磨耗性は抜群であり、30数年の使用に耐えているがこれには鉄工部主任として永年勤続した古い鉄砲鍛冶の流れをくむ中村嘉三郎氏の技術に負うところが大きい。
終戦直後、大阪・神戸の代表的義肢店数社と合併し、帝国義肢株式会社として新発足したが、昭和23年には解散するに至った。しかし、その良き伝統は土井の社員であった当社の創立者川村一人により受け継がれ、現在に至っている。
当社の創業者 川村一人(カズト)は明治34年(1901年)3月20日に広島県豊田郡高坂村真良(現三原市)の農家川村筆助の四男として出生した。長男は家督相続者として、家に残り、二男以下はそれぞれ土地を離れて自立の道を進むという当時の農家の習慣に従い、次男は職業軍人に、三男は警察官になった後を受け、小学校高等科卒と同時に、縁あって大阪市西区南堀江にあった土井義肢矯正器専門技術所に入所した。
当時は一般に技術を習得するためには弟子入りすると言う徒弟制度の時代で、土井義肢にも入門と言う形で入所したのであった。
時に大正5年、川村一人数え年16才の春であった。丁度その頃の土井義肢は日本最古の義肢製作所の一つである奥村済世舘より明治43年に分離独立し、所主土井昇造氏の優れた資質にリードされてその新製品の開発と独持の技術の展開により着々と地位を固めつつある時期であり、10年後の昭和初期には日本での最大最優秀の義肢製作所として自他共に認められる所となった。
川村一人は当初、工場内で技術を習得したが、後に営業専門となり、阪大病院、市民病院(現大阪市大)を始め大阪中の大病院を唯一人で廻っていた。営業が終われば事務の仕事をこれまた一人でこなし、朝夕少しの暇もない位であった。
顧客管理もしていて、一定期間経過しても再注文や修理に来られていないお客に手紙を出し、その上カタログ製作も一人でやっていた。まさに八面六臂の活躍ぶりで、今の人の十人分位の仕事をしていたものと思われる。それはさておき、創設者は大変な勉強家で本好きであった。給料の大半を本の購入にあててしまい、その中には1915年発行のローレンツによる先天股脱に関するものを始め、当時世界をリードしていたドイツ整形外科の主な文献はすべて含まれていたものと言っても過言では無い。
又、文学青年でもあり、数千冊にのぼる文学書を蔵書し、すべての本に川村蔵書と弧菫(ペンネーム)と書いたハンコを押していた。
昭和12年勃発した支那事変が拡大して、昭和16年には第2次世界大戦となり、戦傷、労働災害それに結核性疾患の多発などで義肢装具製作の需要は飛躍的に増大し、土井義肢は繁忙を極めたが、戦争の激化と共に若手人材の確保の困難、材料資材の不足に悩まされ、注文があっても製作できない状況が続き、営業責任者としての心労は多大なものがあった。
昭和19年頃からは戦況も敗色濃いものとなり、国の指導により企業の統廃合が進められていたが、昭和20年3月13日未明の大阪大空襲により土井義肢の本社工場は全焼し、これをきっかけに同じように戦災にあった阪神の数業者が統合され、新たに帝国義肢株式会社として新発足した。
本社は旧土井義肢の瓢箪山工場(現東大阪市)があてられ、社長には土井昇造氏が就任した。しかし、新会社における旧土井義肢店職員は極めて冷遇され、旧土井義肢において営業の責任者(現在であれば専務取締役営業部長)の職にあった川村一人は一主任に降格され、会社運営に参画する地位を全く与えられなかった。
かくて会社を退社して独立自営を決意し、約1年後の昭和21年12月1日に東大阪市に川村義肢製作所を開設したのである。しかし、過労心労が重なったためか独立開業後わずか8カ月後の翌昭和22年8月16日未明に卒然として世を去った。